第1452夜 【ノー・シューズ】

【ノー・シューズ】
亜紀書房 2014年5月26日発行
佐々木マキ
画像

絵本を読んでいていつも思うのは、限界まで削られたことばの数です。

伝えたい事をどう表現するか…
日常、私たちが話したり書いたりする時にもちょっとは考えることですが、特別な状況を除けば、ことば数を気にすることはそれほどありません。

絵本は、絞り切ったことば数、つまり無駄の無い表現のお手本を見せてくれます。
少ないことばだから不充分とか、味がない、というのは全く当たらず、むしろより多くが伝わることをも、絵本は教えてくれます。

この本を読んでいると、その絵本の教えを彷彿とします。

文章に贅肉というものがありません。
だからと言って、ガリガリに痩せているというのではありません。
そのまま人間の体形に例えるなら、均整の取れた姿勢の良い(なぜか)女性のようです。

私だったら…と、おこがましく想像すると、言いたいことが先走り、あれもこれもと余計なことを言わずにいられなくなるだろうと確信します。

起こった出来事を述べている割合が極めて高く、それについての心の動きの吐露はそれほど多くはありません。
つまり、ちっとも感情的ではないのです。
それなのに、〝佐々木マキさんという人”がどうしてこんなにもにじみ出るのか、つまりこちらに伝わってくるのか、不思議にも思えます。

ライカⅢf を買ったことについて書いている【ノー・シューズ】の最後のところで、写真について述べている部分に、その答えを見たような気がします。

何かを見つけて、どうしてもそれを撮りたい私がいて、絞りとシャッター速度を決め、目測あるいは距離計でレンズの繰り出し量を決め、機種によってはチャージ・レバーを起こして、それでようやくシャッターが切れる。
つまり何かを撮影することは、かなり意志的な行為だといえる。

そうやって撮影した筈のフィルムの、どのコマを採用するかという段階でも、私というものが出てくる。
あるコマを選び、あるコマを捨てるのは、ほかでもない私である。
選んだコマをプリントしてみたが、どこか気に入らずに破って捨てるのも、私である。

捨てられるのを免れたプリントが五百枚、千枚と溜まっていくと、その堆積から何かしら私というものが抽出されてくるような気がする。
自分でもよく知らなかった私の心の奥というものが。



万が一、自分が自伝のようなものを書くことがあるならば、お手本はこの本以外にありません。

【ぼくのスクラップ・スクリーン】のように、テーマを、時系列に神経質にならずに設定し、できるだけ根気よく記憶を掘り起こし、まずは頭の中に再生された情景を記す。
そこに、自分の喜びや、寂しさや、恐れといった気持ちが含まれていたのなら、改めて「嬉しかった」とか「恐かった」と言わなくても伝わるでしょう。

「私はこうだ」と言わなくても、
何を述べて、何を述べないのか、選ぶところに「私」が現れる。

自伝を書く書かないは別として、日々の選択すべてが、「私」を表しているという当たり前のことに、今更ながら思い至りました。


佐々木マキさんと、同じ時代に生きていられることを感謝します。

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