第700夜 【なんじゃらほい】

【わたしも】
福音館書店 年少版こどものとも 通巻168号 1991年3月1日発行
木葉井悦子さく
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私は、大人として絵本を味わえる幸福を常々感じるものであります。
それはいろいろな理由からではありますが、「こどものとも」についていうと、折り込み付録の存在が大きいのです。

折り込み付録の木葉井悦子さんの「作者のことば」を読むと、絵本の味がまた格別なものになります。

「無用の天国
この五、六年我が家の前の家が空き家になっていた。
小さいけれども庭もあった。
庭木は人気が無くなってから伸び放題伸びて塀の外に溢れ出てきた。
その様は管理されなくなった植物が自然体に帰ろうとする力に漲っていた。

毎日眺めているこちらの身にも伝播してき、固くちぢこまっている心身を解いていった。
或る日私は身体を横にしてやっと滑り込めるその家の隣りとの境を管の中を抜けるようにして庭に入ってみた。

その空間は幾色もの糸を巻き込んで出来ている手鞠の中に入った心地にさせた。
重量感のある紅色の桃の花が松の深い緑の針の葉の間を縫って弾けている。
素人造りではあるが山水を模した崖の後ろの竹林。
朱、淡紅、白の虫が羽根を開いてだんごになって、たかっているような咲きっぷりの木瓜の枝が、団扇の芯のように開き切って空中を飛ぶ蜂を誘っている。

柿の若葉の香りがたちこめ、梅の蕾も力んでいる。
さわらの幹に去年の烏瓜が黄ばんでぶらさがり、その蔓に零余子の蔓がからみあい今年の新芽を吹き始めている。
くぐもった山鳩の声が耳もとを波立たせる。
日光が重奏する枝葉の間を掻い潜り下草にゆらゆらと、かすかに届いている。
湿った腐葉土をそっと剥ぐと小さな生物の種類の多さに息をのむ。

ここは今、一時無用の天国である。」

確かに、絵本の“わたし”が次々に鳥や犬や虫になりきっているその場所は、「空き家の手入れされていない庭」そのものです。
そこで、生き物と同じ動作をするだけでなく、その気持ちにまで至ろうとする“わたし”に迫力を感じます。
この文章を読み、再び絵本を読むと、“わたし”は単に絵本の中の女の子ではなく、まさに“私”になります。

“わたし”の表情の豊かさは、心の豊かさを現している・・・、そう思うと同時に、自分は自身の感性をこんなにもたっぷりと活動させているだろうかと自問する私がいました。

【なんじゃらほい】
福音館書店 年少版こどものとも 通巻213号 1994年12月1日発行
木葉井悦子さく
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これまた、折り込み付録の作者のことば「無二」を読むと、深いのです。

仏教の教え、そして自然科学的見地の紹介があって、結論は、
「心や魂(霊)のレベルでも物質のレベルでもそもそもは一つである」

それが絵本になると、「なんじゃらほい」になるのです。

表紙の鯉のぼりの形が“元”です。
これにいろいろな呪文をかけると、クジラになったり、飛行船になったり、虫になったり、桔梗の蕾になったり、濃いメイクのお姉さんになったり、どんぐりになったり、だるまになったり、カエルになったり、鍵穴になったりするのです。

呪文をかけてページをめくると、変身後の姿が見られるのですが、私の予想はことごとく外れました。
固定観念や邪念が多すぎたのでしょうか。
しかし、そもそもすべては一つなわけですから、「不正解」というのはありえないわけですよね。

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