第363夜 【おやすみなさい おつきさま】
【おやすみなさい おつきさま】
評論社 1979年9月20日発行
マーガレット・ワイズ・ブラウン さく
クレメント・ハード え
せた ていじ やく
とても静かな印象の絵本だと感じていた私は、うさぎのおばあさんが、“しずかにおし”と言う場面ではちょっと面食らいました。
せいぜい、暖炉の火がパチパチ、時計の針がかすかにカチカチ、それくらいの音しか感じ取れないというのに、“しずかにおし”と言われているのは誰なのでしょう。
「おやすみ おへや」
「おやすみ おつきさま」
「おやすみ おつきさまをとびこしてるうしさん」
「おやすみ あかりさん」
「おやすみ あかいふうせん」
「おやすみ くまさん」
「おやすみ いすさん」
「おやすみ こねこさん」
「おやすみ てぶくろ」
「おやすみ とけいさん」
「おやすみ くつした」
「おやすみ にんぎょうのいえ」
「おやすみ ねずみさん」
「おやすみ くしとブラシ」
「おやすみ だれかさん」
「おやすみ おかゆさん」
「おやすみ “しずかにおし”というおばあさん」
「おやすみ ほしさん」
「おやすみ よぞらさん」
「おやすみ そこここできこえるおとたちも」
こんなにもたくさんのものたちに「おやすみなさい」を言っているのはうさぎの子です。
黙読していると、うさぎの子も心の中だけで言っているように思ってしまいますが、もしかしたら、全部声に出していたのかしら。
それなら、おばあさんに“しずかにおし”って言われるかもしれません。
それにしても、そこに存在するもの一つとして漏らさずあいさつをしているうさぎの子、本当に一つ一つに語りかけたいからなのか、ただただ眠りにつくのが惜しいからなのか・・・。
よく見るとベッドの上で、さりげなく体勢を変えて動いているうさぎの子の様子からすると、どうやら後者の比率が高いようです。
部屋の明度が、緩やかに段々と落ちていきます。
モノトーンのページを経るたびに、少しずつ少しずつ暗くなっていきます。
テーブルの上のスタンドが作り出す光と影。
部屋の明度が下がるにつれて、明るさを増していく暖炉の火と、窓の外の夜空。
そして、人形の家の窓も。
一日の最後を、こんな風に自分に見える物たちすべてに「おやすみ」を言って終えるのって、なんだか穏やかでいいなあと思えてきました。
返事の返ってこない「おやすみ」もいいものですよね。
小さなねずみがすべてのページにチョコンといて、探さずにはいられません。
【ぼくは あるいた まっすぐ まっすぐ】
ペンギン社 1984年11月20日発行
マーガレット・ワイズ・ブラウン/坪井郁美 ぶん
林明子 え
敷地に対して建物の占める割合を建蔽率というらしいのですが、それが高いほど、土地いっぱいいっぱいに建物が建っているということです。
この絵本の、ページの広さに対して絵の占める面積、絵画率(そんな言葉はありゃしません)、は通常の絵本よりかなり低いといえます。
つまり、贅沢な作りになっているのです。
余白がとても広いことが、この絵本をとても印象付けます。
男の子が一人でおばあちゃんのうちへ行くことになります。
最初は、おうちの前の道をまっすぐ行って、それから、田舎道をまっすぐまっすぐ行けばいいらしいのですが、男の子は実に忠実にこの指示に従います。
途中で花を見かけて立ち止まると、足の向きが若干ずれますが、ずれたまま、まっすぐまっすぐ進みます。
とにかく、自分の顔が前を向いている方向にまっすぐです。
途中、花やチョウチョやイチゴと遭遇するたびに、
「これは なんだろう
こわいものかな?」
と思います。
子どもの頃は、“怖いものなのか、そうではないのか”という識別は実に重要です。
私なんぞは未だに、よくわからない映画を観ていると、途中で、『これは怖い映画なのか、そうではないのか』が気になることがあります。
小高い丘を上るときに、後ろ向きで上りながら、
「いくら たかくても へいき
こうやって のぼれば みえないからね」
というのは、ほほえましいというより、この姿勢を学ばなくては、と思ったほど、ある意味悟りの境地に達しています。
やはり後ろ向きで下りた後のせりふも、深いです。
「ずいぶん たかかったんだなあ
こうやって おりれば よくみえる」
馬小屋、犬小屋、蜂小屋(?)を、おばあちゃんのうちかな?と思いながらのぞいていきますが、冗談ではなく、これは本気だと思います。
子どもにとって、初めていく場所の建物は、大きさの基準なんて大人の常識から激しく逸脱しているものなのです。
覚えがあります。
おばあちゃんの家にたどり着いたのは、奇跡のようにも思えます。
評論社 1979年9月20日発行
マーガレット・ワイズ・ブラウン さく
クレメント・ハード え
せた ていじ やく
とても静かな印象の絵本だと感じていた私は、うさぎのおばあさんが、“しずかにおし”と言う場面ではちょっと面食らいました。
せいぜい、暖炉の火がパチパチ、時計の針がかすかにカチカチ、それくらいの音しか感じ取れないというのに、“しずかにおし”と言われているのは誰なのでしょう。
「おやすみ おへや」
「おやすみ おつきさま」
「おやすみ おつきさまをとびこしてるうしさん」
「おやすみ あかりさん」
「おやすみ あかいふうせん」
「おやすみ くまさん」
「おやすみ いすさん」
「おやすみ こねこさん」
「おやすみ てぶくろ」
「おやすみ とけいさん」
「おやすみ くつした」
「おやすみ にんぎょうのいえ」
「おやすみ ねずみさん」
「おやすみ くしとブラシ」
「おやすみ だれかさん」
「おやすみ おかゆさん」
「おやすみ “しずかにおし”というおばあさん」
「おやすみ ほしさん」
「おやすみ よぞらさん」
「おやすみ そこここできこえるおとたちも」
こんなにもたくさんのものたちに「おやすみなさい」を言っているのはうさぎの子です。
黙読していると、うさぎの子も心の中だけで言っているように思ってしまいますが、もしかしたら、全部声に出していたのかしら。
それなら、おばあさんに“しずかにおし”って言われるかもしれません。
それにしても、そこに存在するもの一つとして漏らさずあいさつをしているうさぎの子、本当に一つ一つに語りかけたいからなのか、ただただ眠りにつくのが惜しいからなのか・・・。
よく見るとベッドの上で、さりげなく体勢を変えて動いているうさぎの子の様子からすると、どうやら後者の比率が高いようです。
部屋の明度が、緩やかに段々と落ちていきます。
モノトーンのページを経るたびに、少しずつ少しずつ暗くなっていきます。
テーブルの上のスタンドが作り出す光と影。
部屋の明度が下がるにつれて、明るさを増していく暖炉の火と、窓の外の夜空。
そして、人形の家の窓も。
一日の最後を、こんな風に自分に見える物たちすべてに「おやすみ」を言って終えるのって、なんだか穏やかでいいなあと思えてきました。
返事の返ってこない「おやすみ」もいいものですよね。
小さなねずみがすべてのページにチョコンといて、探さずにはいられません。
【ぼくは あるいた まっすぐ まっすぐ】
ペンギン社 1984年11月20日発行
マーガレット・ワイズ・ブラウン/坪井郁美 ぶん
林明子 え
敷地に対して建物の占める割合を建蔽率というらしいのですが、それが高いほど、土地いっぱいいっぱいに建物が建っているということです。
この絵本の、ページの広さに対して絵の占める面積、絵画率(そんな言葉はありゃしません)、は通常の絵本よりかなり低いといえます。
つまり、贅沢な作りになっているのです。
余白がとても広いことが、この絵本をとても印象付けます。
男の子が一人でおばあちゃんのうちへ行くことになります。
最初は、おうちの前の道をまっすぐ行って、それから、田舎道をまっすぐまっすぐ行けばいいらしいのですが、男の子は実に忠実にこの指示に従います。
途中で花を見かけて立ち止まると、足の向きが若干ずれますが、ずれたまま、まっすぐまっすぐ進みます。
とにかく、自分の顔が前を向いている方向にまっすぐです。
途中、花やチョウチョやイチゴと遭遇するたびに、
「これは なんだろう
こわいものかな?」
と思います。
子どもの頃は、“怖いものなのか、そうではないのか”という識別は実に重要です。
私なんぞは未だに、よくわからない映画を観ていると、途中で、『これは怖い映画なのか、そうではないのか』が気になることがあります。
小高い丘を上るときに、後ろ向きで上りながら、
「いくら たかくても へいき
こうやって のぼれば みえないからね」
というのは、ほほえましいというより、この姿勢を学ばなくては、と思ったほど、ある意味悟りの境地に達しています。
やはり後ろ向きで下りた後のせりふも、深いです。
「ずいぶん たかかったんだなあ
こうやって おりれば よくみえる」
馬小屋、犬小屋、蜂小屋(?)を、おばあちゃんのうちかな?と思いながらのぞいていきますが、冗談ではなく、これは本気だと思います。
子どもにとって、初めていく場所の建物は、大きさの基準なんて大人の常識から激しく逸脱しているものなのです。
覚えがあります。
おばあちゃんの家にたどり着いたのは、奇跡のようにも思えます。


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